テセウスの船とは(概要・問題提起)
テセウスの船という思考実験があります。パラドックスの1つで、テセウスのパラドックスとも呼ばれます。内容はこんなものです。
テセウスという王がいます。彼は、古い木材で作られた船を持っています。その船の部品を、古い木材からひとつずつ新しいものに変えていきます。すべての部品が新しいものに置き換えられたとき、その船は「前と同じもの」だと言えるのでしょうか。もし言えないのであれば、どの段階からそれを「違うもの」だと言うのか。また、置き換えられた古い部品を集めて、別の船を作った場合、どちらが「テセウスの船」なのか。
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つまり、テセウスの船というのは、ある物体において、それを構成するパーツが全て、または一部置き換えられたときに、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題を指します。
これと似たような視点として、例えばギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている」というものがあります。川としての存在はそこにあるが、中身の水は流れ続けて違う水に変わっているので、同じ川に2度入ることはできない、という主張です。
ある者はテセウスの船だと言い、ある者は違う船だと言いました。ここから哲学的な議論が生まれ、何を持って「同一性がある」と言えるのか、もしくは言えないのか。その線引きをどのように設定するのか、という問題に直面したわけです。
この”同一性”に関連する問題提起は、世の中に存在する色々なものに置き換えて考えることができますよね。色々と例を挙げてみたいと思います。
同一性を考える具体例(身近な対象から)
船・乗り物・パソコンの同一性
例えば身近な車は、タイヤを交換したり外装を改造したりすることもありますが、日本では車体番号の打刻されたフレームが法的な同一性を規定しています。
航空機の場合、製造とサポートの会社が別であることも普通であり、エンジンやアビオニクスなどを新型に入れ替えることも多いらしいです。ただ、胴体が大破した場合は廃棄されるため、胴体部分が同一性を規定するんだとされています。
パソコンでは部品の入れ替えが可能ですが、バンドルされたソフトウェアは特定のパーツと紐づけされることがあり、その部品を交換すると別のパソコンとして扱われることがあります。
伝統的な継承:秘伝のタレ・木造建築
秘伝のタレ!秘伝のスープ!などを売りにしている料理店などでは、タレやスープを何年も継ぎ足していると歌っている場合がありますね。それも、一定の期間で中の古いタレやスープの全てが入れ替わっているとされています。
日本には古くからの伝統的な木造建築、などがありますが、それも劣化を考慮して定期的に立て直すことが前提となっていることがあります。でも、修繕が何回入ってもその建物の名前を変えることはせず、何百年の歴史がある建物!と呼ばれていることが多いですね。
グループやチームの同一性
社会では国家を始めとした組織もその構成員が入れ替わりながら存続しています。企業や学校、スポーツチーム、楽団などの組織も時間が経つにつれて所在地や所属先が変わり、構成員も入れ替わっていくが、社会的には同じ組織として認識されています。
AKB48などのアイドルグループや、プロスポーツチームなどは、中身のアイドルだったり選手だったりが全員入れ替わることもあります。特にスポーツチームは、選手の引退だけでなくベンチのプレイヤーを使って試合をすることもあると思います。そういった場合も、同じグループ名、同じチーム名で活動を続ける場合がほとんどなわけです
キャラクターと声優の同一性
クレヨンしんちゃん、ドラえもん、サザエさんなどの古くから続くアニメでは、登場するキャラクターは変わっていないものの、それを演じる声優は変わっている場合が多いです。でも、キャラクターの名前を変えたり、登場人物を変えたりすることはありません。
自然現象:台風・ハリケーン
台風やハリケーンは名前が付けられるほど同一性が認識されますが、その勢力圏では常に空気や水が入れ替わっており、発生時と消滅時では構成する物質はまるで違うものになっています。ここは少し難しいポイントで、1つのハリケーンがある地点で消滅した直後に、ごく近い場所に別のハリケーンが発生した場合、それを最初のハリケーンが復活したと見るか、別のハリケーンが発生したと見るかが、同一性というものの捉え方によって変わってきてしまうからです。
人間:身体・心・時間
そして僕ら人間も、難しいテーマの1つです。
人は、約10年で身体のすべての細胞が新しい細胞に入れ替わるらしいです。
生まれたときに、ある項目の数値が低いと、注射をすることでその数値を平常値まで引き上げます。
コロナが流行ったときは、抗体をつけるためにコロナワクチンを打ちます。
右足を切断したときは、代わりに機械をつけて歩けるようにします。
こういったことが続けば、最終的には「脳を機械と入れ替えたら認知症がなくなるよね!」「体を機械にしたら不老不死になるよね!」といったところまで医療が発達する可能性があります。そうなった場合、それは人間と呼べるのでしょうか。もし呼べない場合は、それはどこから人間だと呼べなくなってしまうのでしょうか。もしかすると、ワクチンを打っている時点で僕らは人間ではなくなっているのかもしれません。
少し変わった視点でも考えてみます。
僕ら人間は、時間と経験によって変化します。それは肉体的な変化に限らず、精神的な成長も含まれます。それを「大人になる」と呼んだり、「あの頃の自分は」と語ったり、場合によっては「あの頃の俺とは違う」とはっきり表現する人もいますね。それは、人が変わってしまったということなのでしょうか。
社会的な問題へ:文化財・知財・医療倫理
これらの解釈によって、社会的な問題に繋がっていたりもします。例えば、文化財や歴史的建造物の修復や再建の際、元の部品を交換したり改修したりすることが問題となります。どこまで修復や変更が許容されるかは、社会的な議論の対象となります。
また、著作権や特許の問題において、作品や発明物が改変された場合、それは新たなものとして認められるべきか、元の権利者に帰属すべきかという議論も存在します。
もっと身近な例でいうと、現代医学技術によって身体の一部を改変できるようになりつつありますよね。これに関する倫理的な問題も起きています。例えば、遺伝子編集による子供の設計や身体の一部を交換することについての議論などがそれに該当します。
こういった同一性の問題は、人によって捉え方が異なるので、”同じ”とは何なのか、という点を考えなければいけません。
“同じ”の二義性:質的同一性と数的同一性
1つ目の定義の仕方は、「質的(qualitatively)」という属性が一致していることを意味する同じと、「数的(numerically)」という数が一致しているということを意味する同じに分類するやり方です。
例えば、同じに見えるボウリングの球が2つあるとして、それらは質的には同じですが数的には同じではありません。一方を別の色で塗り替えた場合、塗り替える前と比較して数的には同じですが質的には同じではありません。
このような主張では、テセウスの船は質的には同じですが、数的には同じではありません。川も同様で、質的には同じですが、数的には同じではありません。
しかしこの定義をした場合、複雑な問題が発生します。例えば、先ほどのボウリングのボールは、1秒でも時間が経てばごく僅かですが劣化するので、質的に同じではないと言えないこともありません。また、ボールの属性をその時空間における位置であるとした場合は、異なる位置や時間に存在するボールは質的には同じであると言えなくなります。
同様に川の場合も、水面の波の状態などは同じになることはないので、質的に同じではないとも言えてしまいます。
次は時間軸で考えてみましょう。
時間を含む同一性:4次元主義(時間的部分)
4次元主義の概念からも解答が生じました。4次元とは時間的な広がりを指します。
あるオブジェクトは空間的には3次元の広がりを持っていますが、第4の次元として時間的にも広がりを持つので、そのオブジェクトは因果関係のある一連のタイムスライスから構成されます。タイムスライスとは、時間を非常に細かくスライスした中の1つだと思ってください。
各タイムスライスは数的に同じで、タイムスライスをまとめて考えたときのそのオブジェクトも数的に同じですが、その1つ1つのタイムスライスは質的には異なります。なぜなら、例えばボウリングのボールも、時間が経ってしまうと多少なりとも劣化するからです。
川の問題で言えば、川はそれぞれのタイムスライスで異なる属性を持ちます。水面が変わり、流れてくる水が変わるからです。しかし、それらのタイムスライスをまとめたとき、全体として川としての同一性があると言えます。
したがって、同じタイムスライスの川に入ることは、過去に戻るなどの時間的移動ができない限りは不可能ですが、それらのタイムスライスをまとめれば、同じ川に2度入ることは可能であると言えますね。
最後に、アリストテレスの提唱した「現象の四原因説」という考えを見てみましょう。
- 質料因…存在するものの物質的な原因
- 形相因…そのものが「何であるか」を規定するもの
- 作用因…そのものの運動変化の原因
- 目的因…そのものが存在し、運動変化する目的
分かりづらいと思うので、家を例にすると、家を作る石や木等の建築材料は質料因、設計デザイン・家屋の構造は形相因、家を造る主体たる建築家、大工、そしてその作業は作用因、済むことが目的因です。
さて、テセウスの船でも考えてみましょう。
質料因は、「存在するものの物質的な原因」なので、テセウスの船で言うと部品のことを指します。これがテセウスの船では新しい部品に置き換えられているので、質料因から考えると、テセウスの船は同じではない、という結論になります。
形相因は、「そのものが何であるかを規定するもの」なので、テセウスの船でいうとその形状であると言えます。部品は変わっても船の形は変わっていないので、形相因から考えると、テセウスの船は同じである、という結論になります。
作用因は、「そのものの運動変化の原因」なので、テセウスの船で言うとそれを作った職人やその作業だと言えます。同じ道具や技法を使って部品の置換をしたと考えることができるので、作用因から考えると、テセウスの船は同じである、という結論になります。
目的因は、「そのものが存在し、運動変化する目的」なので、、、大体分かってきましたね。材質が変わったとしてもテセウスが使った船であるという目的は変わっていないので、目的因から考えると、テセウスの船は同じである、という結論になります。
さて、色々な視点からテセウスの船が同じなのか同じではないのか考えてみました。テセウスの船の問題は、船が部品が交換され続ける過程で本当の船のままであるかどうかという哲学的な問題です。通常、この問題は同一性や個体の変化に関する議論として捉えられますが、ここから何を学ぶことができるのでしょうか。
この思考実験から学べること(アイデンティティの実践知)
個人は時間と経験によって変化します。過去の自分と現在の自分は異なる人間と見なされることがあります。テセウスの船の問題から着想を得て、個人のアイデンティティも部品のように交換され、変化する可能性があると考えることができます。したがって、個人のアイデンティティは永遠に一貫しているわけではなく、変動するものと考えることができるわけです。文化も、テクノロジーも同じです。
僕らは、大きく変化を続けている周りの人、周りの環境などを、同一のものとして扱う性質があります。特に日本人は、変化を嫌う国民性を持っているので、「あいつは変わっちゃったな」みたいなことを言うわけです。しかし、実際には変化する環境の中で誰しも変化を続けています。まずは、今まで全く意識できなかった、もしくは”同じ”だと認識し続けてきたことがらが、実は変化を続けているんだ、と認めることが大事なのではないかと思います。
テセウスの船の問題は、物事のアイデンティティと変化に対する新たな視点を提供し、個体同一性や文化の複雑性についての議論を豊かにします。物事は固定されたものではなく、連続的なプロセスとして理解することが、この問題からの重要な学びの一つです。
医療・テクノロジーの進展と人間の同一性(倫理的論点)
個人的に一番身近に考えられるのは、医療だと思います。ワクチンを打つこと、コンタクトを入れること、体の一部を機械に代替すること、、、など、今現在既に起きている事柄だからです。
おそらく、このままいくと将来、脳や身体を全て機械に置き換えれば、不老不死で、覚えたことも忘れない完璧な頭脳で、怪我しない完璧な身体が完成するはずです。でも、それは人間と呼べるのでしょうか。呼べない気がしませんか?それがいつかは分かりませんが、ワクチンやコンタクトなどはそこに向かっている道の第一歩で、道を歩み始めているということなんだろうと思うのです。
そうすると、確実に「じゃあどこまでが人間で、どこから人間じゃないの?」という倫理的な議題が上がります。今はどうでもいいと思っていても、いつかは必ず考えなければいけない問題なわけです。
一方で、その線引は各々が自分で決められるものだ、とも思えます。頭から足まで全身機械でも、意識があれば人間だ、という人もいると思います。それはそれで良いのだと思います。
問い:あなたはこの流れをどこまで許容できますか。どの基準(意識・記憶・連続性・身体)を人間性の核とみなしますか。